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このページでは、アールグレイさん演奏のMIDI(ショパンのマズルカ17-4)を使っています


 夜想曲の部屋 / マヨルカの部屋 / サンドの部屋 / リストの部屋 ミュッセの部屋 


ポロネーズを弾くショパン(テオフィル.アントニ.クフィアトコフスキ)


ショパンの演奏法 
  
「ある音階をテンポを変えずに非常に早く弾けば音色のむらには誰も気がつかないであろう。あらゆるものをむらのない音色で弾くということではない。よく訓練されたメカニズムとは、美しい音の品質によって、様々にニュアンスをつけることだと思う。」
ショパンは、このように語っていた。
当時のヴィルトゥオーゾ達は、表面的な、派手な効果を狙うため、何でも速く弾きとばしたり、超絶的なテクニックを誇示したり、大音響を打ちならしたり、大げさな身振り
で聴衆を惹き付けていた。
ショパンは、そんなアクロバット奏法に背をむけて『美しい音とニュアンスを創る』ことを開拓していく。

ショパンはペダルの用法を完全にマスターしていて、極めて巧妙にペダルを用い、和声の響きを豊かにし、旋律の効果を上げ、多様で繊細なニュアンスを生みだしていた。



ピアノ教師としてのショパン

一日5人程度教えていた。普通一レッスンは、一時間足らずで20フラン。出張教授の場合は更に高かった。ピアノ教授による収入は、演奏と作品出版を合わせた収入よりも、ずっと多かった。

身体を傾けなくても鍵盤の両端に手が届く位置に座り、肘は鍵盤の高さになるようにし、美しい演奏の条件でもあるので、手首と手の柔軟性を強調し、常に「やわらかく」と言っていた。手首からの力だけの演奏ではなく、腕全体を使うようにと助言していた。

音階の練習には指のポジションが適しているということで、ロ長調の音階からはじめるのが良いと考えた。そしてこれをマスターするまでは、他の音階には手をつけさせなかった。
「白鍵だけを触る八長調の音階は完全に弾きこなすのが最も難しい」というのが彼の持論だった。

彼はむらのない演奏をするため、独自の運指法を教えた。
丸みのあるレガートで歌うような演奏をしてみせ、生徒にもそれを望んだ。伴奏部を弾く左手は正確なテンポを保ちながら右手は拍子に促われず、自在に歌わせて弾くのが良いと教えた。ただ、誇張されたテンポ.ルバートには反対していた。ショパンはペダルの用法により、多様で繊細なニュアンスを生みだしていたが、生徒たちが、ペダルの使い方を間違えると厳しく注意した。
ピアニシモからフォルテシモまで限りなくニュアンスをつけるようにと指導した。そして絶えずひとりひとりの個性の違いやそれぞれが何を必要としているか、注意を払っていた。


どの生徒にもまず、クレメンティ作曲の「グラドゥス.アド.パルナッスム」とクラーマーの練習曲を練習させた。指をそれぞれ独立させて動かす練習には、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の48の前奏曲とフーガから必修曲を選んで与えた。より練習を積んだ生徒には自分の作品の中からエチュードを弾かせた。自作の他には、スカルラッティ、モーツァルト、フンメル、フィールド、ベートーベン(作品57まで)ウェーバー、シューベルト等の作品を教えた。同世代のメンデルスゾーン、リスト、シューマンの曲もいくらかは、取り入れるようにしていった。



ショパンの肖像画

ショパンの肖像画は多いが、その中でも傑作といえるのはドラクロワの描いたショパン像だと思う。
画家のドラクロワは、ジョルジュ.サンドを通してショパンと知り合った。3人は、共に語り合い、友情を深めていった。ドラクロワとショパンは、とても気があい、互いに尊敬しあっていた。「彼は、まれに見る高貴な人間で、私が会った最も純粋な芸術家だ」とドラクロワはショパンのことをそう記している。その友情は、ショパンが亡くなるまで続き、晩年、寝込んでいたショパンをドラクロワは何度も見舞っている。

肖像画が描かれたのは、ショパンとサンドがまだ仲睦まじい頃で、ドラクロワは、ショパンがピアノを弾き、そのそばで、サンドが聴きいっているという構図で描いていた。
絵は未完成のままドラクロワが亡くなるまで彼のアトリエにあったが、ドラクロワの死後、何者かの手によって、分断されてしまった。
なぜ切り分けられてしまったか?2つの説があるらしい。
1つは、収集家の手に渡り、経済的な理由で分けられというもの。もう1つは、サンドの息子モーリスが、(ショパンの生前から、ショパンのことをひどく嫌っていた)嫉妬して切り分けたというもの。

そもそも、ショパンとサンドが別れた理由もサンドの家庭内のいざこざ、モーリスの激しい憎しみや、娘ソランジュの結婚問題などが関係しているのだから。
モーリスは、ドラクロワの弟子でもあり、絵のことはよく知っていた筈だ。
でも、真実はわかっていない。
真実はどうであれ、私はこの絵の運命を悲しく思う。
       
    ショパン像               サンド像    


分断された後、現在ショパン像はパリのルーブル美術館、サンド像は、コペンハーゲン
オードロップゴー美術館にある。       



19世紀ワルシャワの街

19世紀ポーランド状勢とショパン

1320年国家統一をして文化的にも経済的にも栄えたポーランドであったが、16世紀末になって、近隣諸国との間との絶え間ない戦争に巻き込まれていった。次第に隣接するロシア、プロシャ、オーストリアに侵食され、1772年には第一次分割によって領土の三分の一を支配され、、1793年の第二次分割、1795年の第三分割ではポーランドのほとんどすべてが三国の支配下に入ってしまう。

多くのポーランド人が主にフランスに亡命し、祖国ポーランドノ独立回復への願望をフランスとナポレオンにたくしていた。ナポレオンは、プロシャを破り、1807年支配下だった領域にワルシャワ大公国を築き、フランス風の憲法を発布した。この比較的平穏な時代にショパンは生を受けた。

ところが、ナポレオンが敗北しワルシャワ大公国は消滅、1815年ウィーン会議では、また三国間で第四次分割が行われ、ワルシャワはロシア支配地区の首府になってしまう。ショパンは、ポーランド人としての意識、愛国心を持って成長し、子供の頃から他のポーランド人と同じく、亡国の民としての悲しみを味わっていた。ポーランド人の反ロシア感情は、時とともに高まり、ロシア側は検閲を強化し、スパイ網をはりめぐらした。1830年頃、ワルシャワには革命的な気運がみなぎっていた。ショパンはウィーンに向けて出発の準備に追われた。

ポーランドの若い知識人や革命家の友人がいたショパンは、ロシア側からの要注意人物として見られていたかもしれないという見方もある。家族や友人の希望もあり、革命が起こる前にショパンを出国させる事になったのは、こういう事情からなのかもしれない。

国を出て無事ウィーンに着いたものの、ここでは、新進ピアニスト タールベルクが新しいスターとして人気を集めていた。ショパンを概に知っていた聴衆は、彼には興味を失っていた。失意の日々に追い討ちをかけるように、「ワルシャワ陥落」というニュースが届く。革命政府は降伏し、ワルシャワは完全にロシア軍の手中に落ちてしまったのである。

ショパンは絶望のどん底につき落とされ、祖国の悲運を嘆き悲しんだ。練習曲の「革命」が生まれたのは、このときと言われている。


19世紀パリ

1831年パリ

ショパンはウィーンを出てパリに着き、セーヌ右岸プールヴァール.ポワソニエール27番地のアパルトマンの5階に落ち着いた。マホガニーの美しい家具の入った部屋で、大通りに面して小さなバルコニーがついていて、そこからは、モンマルトルからパンテオンが見渡せた。

当時のパリは、1830年の7月革命から一年余りたち、フランスは、ルイ.フィリップが国王として統治していた。政情不安、社会混乱が続いていたが、文化、芸術は、ロマン主義が花開き、多くの音楽家、画家、文学者が集まっていた。音楽の中心も概にウィーンからパリに移り、世界一の音楽都市となっていた。ショパンは、期待と不安で胸がいっぱいだった事だろう。


作曲家として

1831年12月、パリでピアニストとしての道を歩もうとしていたショパンだったが、ポーランドでショパンのピアノの二人めの先生エルスナーは、ショパンにオペラも作曲もするように強く望み、手紙を書き送っている。

「君の今の地位はロッシーニとモーツァルトの間にあるのだから君の才能を演奏会のピアノのためだけに止めておくべきではない。オペラによって君の名を不滅のものにすべきだ。」と説いたエルスナーに対し、ショパンは次のように返事を書いた。

「しかし、僕は今日、この種の高い次元における芸術上の希望は持てなくなったことがわかりましたので、先生が手紙で示されたご教示は次のことにして、まず世界に通用するピアニストへの道を開くことを考えざるを得なくなりました。要するに偉大な作曲家になるには創造的な才能の他にも多くの経験と先生がおっしゃるように他人の曲を聴く事、さらにもっと自作を聴いて厳しくチェックすることも必要と思います。」

当時のパリではオペラ、シンフォニー、カンタータのような方面に進出するには多くの難関があって、コンセルヴァドワールでも大勢の若い才能たちの作品が出番を待っている状態だったし、小さな劇場に割り込むことさえ至難だったことをショパンは知っていた。彼はポーランド時代には協奏曲やオーケストラの作品を書いていたが、パリに来てからはピアノ一本に絞るのであった。


パリ.デビュー

ショパンのパリ.デビュー演奏会は翌1832年2月26日プレイエル.サロンで午後8時に開演された。
ショパンは、ピアノ協奏曲ホ短調と「ラ.チ.ダレム.ラ.マーノによる変奏曲」を披露し、大成功をおさめた。この時、聴衆のなかには、リストやメンデルスゾーン等もいた。

ショパンは、パリをこよなく愛し、フランス人からも温かく迎えられるが、フランス社会には、心底から融け込めなかった。彼が本当に心を開いて親密につきあったのは、すべてポーランド人であった。

パリで有名な音楽専門誌の著名な評論家フェティスがショパンのパリデビューに対し、次のような記事を書いている。


「ショパン氏は、2月26日のプレイエルホールでのリサイタルで聴衆を魅了し、かつ驚歓させた。ここでは彼のピアノ音楽に新しい形式を示し、これからの芸術の分野に大きな影響を与えようとするものである。それはメロディの発想とともに、その流麗さ、転調の多彩さ、各楽節のバランスのよさにおいてである。彼のメロディには魂がこもっていて、どのフレーズもそのままファンタジーである。すべてが独創的である。転調の妙は多様で自在であり、フレーズの繋がりは型破りで方縦だ。まるで即興演奏のようにも思える。それは彼の特性の現れであって、彼が年令を重ね、もっと経験を積めば更に変わっていくだろう。今回のような仕事を度重ねていくうちに必ずや一層高い次元での名声をかちとるであろう。そして、この若い作曲家は、演奏家としても賞賛に値し、その演奏はエレガントで、また軽快にして優美であり、輝かしくも鮮明である。」


サロンの寵児

ショパンの極めて繊細で優美で、気品ある演奏は、大きなホールよりもサロンでの方がより際立って人々を魅了した。
上流階級のサロンに集まる人々は、社会的エリートで教養も高く、音楽にも通じている人が多く、一般大衆の集まる音楽ホールや劇場の聴衆達よりも音楽的センスもあり、レベルが高かった。
ショパンの即興演奏の素晴らしさは、比類なかったし、彼の育ちの良さを感じさせる上品で優雅な物腰や、洗練されたマナー、控えめで謙虚な態度、シックでセンスのある装いは上流社会の人々に大変好感を与えた。彼は、方々のサロンに招かれパリの社交界の寵児になっていった。

1833年ショパンが友人にあてた手紙では、次のように述べている。

「僕は最高の社交界に出入りしている。大使、公爵、大臣達の間に座を占めているんだ。どんな奇跡が起こったか自分でもわからないが...。というのは、僕は自分を売り込むような事は何もしてなかったからだ。でも社交界で認められる事が、僕には必要欠くべからざることだと人は言うんだ。良い趣味の源は上流社会とされているからだ。」

この年の一月にはパリのポーランド文芸協会の会員にも推され、若干22歳にしてパリのポーランド人社会のなかでも、最も裕福な名士となった。彼は、亡命ポーランド人のために寄付をしたり、ポーランドの音楽家たちがパリで支援したりした。


サロンでの楽しみ

コンセルヴァドワールのチンメルマン教授のサロンでは、パリの詩人、音楽家たちがよく集まった。そこでは、芸を賭けた遊びが流行り、負けた人は、罰ゲームが待っていた。それは得意の芸を披露しなければならない。詩人ゴーティエ、デュマ、ミュッセは、自作の詩を朗読させられたし、リスト、ショパンは与えられた主題で即興演奏をしなければならなかった。有名なオペラ歌手は、歌声を披露した。

プラーテル伯爵家のサロンでも、芸術家のたまり場であった。伯爵夫人パウリーネはポーランドからの移民で特にショパンを子供のように可愛いがった。リストの言葉によれば、彼女は、時には女神であり、世話婦人でもあり、守護神だったり、優しい慈善家であったりした。ある日リスト、ショパン、ヒラーの三人のピアニストが招かれて集まった時、「ポーランドは、まだ健在だ。」というマズルカを主題にして即興演奏する事になり、それには、リストもヒラーもショパンに一歩譲らざるを得なかった。
この時、伯爵夫人は、「私が、まだ若くて美しかったなら、可愛いショパンを夫に持ち、ヒラーを友人に、リストを恋人に持ちたい。」と言った。
ショパンは、この伯爵家では、遠慮なく振る舞い、どんな冗談も我がままも許された。あるときなど、このサロンで得意のピエロになって、一時間も、とんだり、はねたりしながら、一言も告げないで消え去ったりした。

他にも、ショパン達が常連のサロンは、たくさんあった。大銀行家のオーギュスト.レオとショパンは、終生親交を続け、時には借金をする仲でもあった。


ショパンのパスポート

1837年7月、ショパンは、愛用しているピアノの製造業者で友人でもあるプレイエル氏に誘われて、気晴らしにロンドンを旅行することにした。彼のパスポートには身長1メートル70センチ、髪、眉毛、ひげはブロンド、瞳は灰青色、顔は卵型、膚は白、職業はピアノ教授と記載されていた。

髪がブロンドというのは、実際はダークブロンドで光線の加減や人によっては、栗色に見えた。少しくせのある髪を美しくカールさせて整えていた。瞳は灰青色となっているが、光線や見る角度などで、茶色が表面に出て、茶色に見えたりしたらしい。

身なりには、大変気を遣い、衣服に、お金をかけた。洋服はパリの最高級の洋服店で仕立て、服の色は黒、紺、薄茶、グレー、モーヴなどを選んだ。流行を適度に取り入れ、鹿皮の白手袋、エナメルの靴、帽子、ステッキ、時計、小物に至るまで、上品でシックでセンスの良いものを身につけていた。彼のダンディズムは単なるオシャレというより、作品に見られるような自己の美意識の追求であった。

ピアノ教授、ピアニスト、作曲家としての肩書きを持つ彼には、人が羨むほどの収入があった。にも関わらず、身なりに大変気を遣ったため、出費が大きく、収支を合わせるのがやっとだった。それに病が酷くなってからは、医療費も大変な額になっていた。彼は、病体に鞭打って稼がねばならなかった。


子供の頃のショパン

ショパンは、6歳くらいからアダルベルト.ジーヴニーというピアノ教師についてピアノを習い始めた。当時ワルシャワでは人望高い教師であった。彼は、ショパンにバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、ギロヴェッツ、フィールドの曲を教え、練習曲には、クラーマー、クレメンティ等も弾かせた。
ショパンは、気が向くとピアノに座って簡単な曲を即興するようになったが、まだ楽譜を書けなかったため、ジーヴニーが助けて書き取っていた。1817年、7歳の時に書いたピアノ曲ポロネーズ.ト短調は、その最初のものである。これは、同年出版されてスカルベック伯爵家に捧げられている。2年後には、ポロネーズ.変ロ長調と行進曲1曲が作曲され、行進曲はオーケストラに編成され、コンスタンチン大公に捧げられ、観兵式で演奏されたという。


1818年、2月24日に催された慈善音楽会で、8歳のショパンはギロヴェッツのピアノ協奏曲を演奏して、絶大な称賛を博して、一躍神童とうたわれ、ワルシャワ貴族、ラジヴィーユ公、スカルベック伯、チャルトルスキ候、プルシャク伯らのサロンに催される夜会に引っぱりだこになって招かれた。
モーツァルトの再来と言われ、演奏の終わりには、オペラや歌曲の主題を与えられ、即興演奏するのが常であった。


ショパンをめぐる女性たち(名前をクリックすると画像が見られます)


初恋の女性 コンスタンツィア・グワドコフスカ

ポーランドのワルシャワ音学院で知り合った。彼女は声楽科の学生で、最初の頃、内気なショパンは、あまり話もできなかったようだ。彼女を想いながら、協奏曲ヘ短調(ラルゲット)ワルツホ短調(遺作)、「レント.コン.グラン.エスプレーショーネ」、ノクターンNO9の三曲等、美しい曲を作った。ポーランドを去る前、ショパンは手帳を彼女に渡し、四行詩を書いてもらう。親友を通して彼女と文通をするが、ロシア軍のワルシャワ侵攻により国の状勢が悪化し、手紙もとだえる。彼女は、オペラ歌手になり、後に貴族の息子と結婚する。


デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人

ショパンの音楽におけるよき理解者。そしてショパンの人生の多くに関わった女性。
最初に出会ったのは、ショパン20才のころポーランドから、パリに行く途中である。
共にポーランド人で、デルフィーヌは、ショパンよりも5才年上で、夫とは別居中であった。彼女は、パリ社交界でも、評判の美人で、ソプラノの非常に優れた声の持ち主でもあった。ショパンは、彼女にピアノを教えたり、彼女の歌の伴奏をしたりしながら、親密になっていった。ある日、ショパンが、自分の自画像を即興曲で弾いていると、デルフィーヌが、私のも弾いてと頼んだ。すると、ショパンは、彼女のショールを取ると、ピアノの鍵盤の上にかけ、美しい曲を即興演奏してみせたというエピソー ドがある。デルフィーヌは、ポーランドに戻り、ショパンは彼女をあきらめた。
ショパンは、その後、マリアとの出会いと別れを経た後、ジョルジュ.サンドと愛の逃避行後、サンドの恋人として、共に暮らすようになるが、そんな頃、パリでデルフィーヌと再会して、愛が再燃するのである。
サンドと別れた後、病気のショパンの前で、デルフィーヌがピアノを弾きながら、歌を聴かせたという話も有名である。


婚約者マリア.ヴォジンスカ

ワルシャワの貴族ヴォジンスキ家の娘。ショパンの親友の妹で、彼女の幼い頃、ショパンは、ピアノを教えていたことがある。ショパンが25才のとき、美しく成長した彼女と再会したショパンは、次第にマリアに魅かれるようになり、求婚。マリアも受け入れ、家族も当初賛成するものの、ショパンの健康を懸念した親族の反対にあい、破談。
ショパンは、生涯マリアからの手紙の束をリボンで封印し持っていた。マリアは、その後貴族同士の2度の結婚をするが、ショパンの曲は、よく弾いていたらしい。

マリアの描いたショパンの肖像画



ジョルジュ.サンド

 女流作家、ジョルジュ・サンドとの出会いは彼に多大なる影響を及ぼした。彼がジョルジュに初めてあったのは1836年のリストの開いた夜会においてであった。初対面の「男装の麗人」ジョルジュを彼はあまり快く思わなかった。当時彼の心はマリア・ヴォジンスカに向いていたのである。マリアとの結婚が白紙になり失恋の痛手の中でショパンはジョルジュに惹かれていく。
サンドと駆け落ちするようにして、スペインのマヨルカ島へ行ったショパンは、そこで結核を再発し、3か月でパリに戻る。この頃には、ショパンとサンドの関係は、男女というより、母子愛のようなものだった。サンドは、夏になると病弱なショパンをノアンの別荘で静養させ、献身的につくした。サンドと過ごした間のショパンは存分に作曲に専念でき、数々の名作を生んだが、サンドの前の夫との間の子供との誤解、中傷などが原因で1847年10年続いた関係にピリオドをうつ。


ジェーン.スターリング

ジェーンは、ショパンの弟子だったイギリスの女性。サンドと別れた頃、パリは、革命の嵐がふきあれていた。体調も悪く危険を感じたショパンは、ジェーンの誘いでイギリスに渡るが度重なる演奏会、招待などで、ショパンの健康は悪化の一途をたどっていく。パリにもどったショパンは、もはや限界だった。お金も底をつき、ジェーンが援助の手をさしのべたが、1849年10月17日ショパンは帰らぬ人となる。
生前ショパンはジェーンのことを、「とてもよくしてくれるが、彼女の顔が自分とよく似ているので好意以上の気持は持てない」と友人にもらしていた。




曲の題名

ショパンは曲の題名をつける事を嫌がった。「小犬のワルツ」とか「幻想即興曲」などは、彼の死後、勝手に弟子たちや、出版社がつけたものらしい。「別れの曲」にいたっては、ショパンの伝記映画が日本にきたとき邦題が『別れの曲』だったので、ついたのだそうだ。

ショパンは、すべて作品番号で表わしたが、ピアニストにとって、表題がないというのは、とても不便だと思う。
葬送行進曲などは、楽譜を出版する際、勝手に付けられたもので、ショパンは、何度も足を運び、ただの行進曲にするように迫ったらしいが、だめだった。
出版社にとっても、表題のないものは、都合が悪い。
当時は、楽譜も勝手に手を加えられたり、結構いいかげんなところがあったようだ。出版元によってもさまざまで、ショパンの楽譜には、何種類もの楽譜があるのは、そのためなのだ。

晩年のショパンが、イギリスに滞在した際、イギリスの婦人たちは、ショパンに「嘆息3番を弾いてください」とか、「私は、あなたの「鐘」が好きです。」などと言われ、あきれてしまった。というおもしろいエピソートが残っている。

題名をつけるのを極端に嫌ったショパンは、ロマン主義ではなく、リアリストだという人もいて、なかなか興味深い。



ショパンとリストの徹底比較(名前をクリックすると画像が見られます)

ショパンとリストは、1才違い(ショパンが年上)であるが、互いに20才位の頃パリで出会い、すぐに親交を深めた。最初は、ショパンもリストと親しくしていたが、
リストが女性との逢い引きの為に自分のマンションを使うことに嫌気がさしたことと、
勝手にショパンの曲をリストがアレンジするのが気にいらず、だんだんと、ショパンの方から距離をおくようになっていった。

(デビュー)
リストはショパンよりも先にプロの演奏家として名声を博していた。一方ショパンも、内乱の激しくなったポーランドあとにして、パリで、デビュー演奏会を開く。そのたぐいまれな才能は、シューマンをはじめ、音楽界の人々に認められる。
ショパンは、当初演奏家として一人立ちしようとするが、彼の演奏は、デリケートで、コンサートホールのような所では、音が響かず、不向きだった。逆にリストは、激しい動作で、ピアノをガンガン鳴らすので有名だった。ショパンは次第に演奏家ではなく、作曲に専念するようになる。

(性格)
ふたりの性格は水と油のように違っていた。ショパンはいつも穏やかで快活を装っていたが、本心を決して他人に見せようとしなかった。本当に親しい人は、ごくわずかだった。一方リストは、来るもの拒まずの、親分肌で、彼のまわりは、いつも人が集まった

(才能)
ショパンは、ごく幼いころから、作曲や即興に秀でていて、気持を言葉で伝えるより、曲にした方が早いと言っていた。ただ、彼の興味は、ピアノにあり、ほとんど交響曲の作曲はしていない。
リストは、若い頃は、演奏家として成功したが、愛人カロリーネのすすめもあり、後に作曲も手がけるようになり多くの大作を手がける、大器晩成型。
ショパンが生存中のリストは、あまりいい仕事(作曲)はしていない。

(社交界)
外見上では、リストの方が美男子だったにも関わらず、ショパンの方がサロンでは受け入れられた。リストは、子供の頃から音楽以外のまともな教育を受けてこなかった事もあり、態度は、どちらかといえば、粗野で洗練もされていなかった。ショパンは、外見上もマナーも、非常に貴族的で洗練されていた。だからリストの美貌よりもショパンのエレガンスの方が社交界では受け入れられた。ショパンは決して奢り高ぶったりする事はなく、自分の身分もわきまえていて、常に謙虚で控えめであったので、人々の反感を買うこともなかった。一方リストは、議論好きで自己顕示欲があり、サロンなどでも周囲の人々の注目を集めていないと気が済まないようなところがあった。



(互いの見方)
ショパンはリストの事は、「頭の中が紙はさみのように、常に他人の作った曲をもらさずストックにしている器用で、才能のかけらもない男」と見ていた。
ショパンは、自分の曲を編曲されるのを嫌っていたが、リストは他人の曲を編曲して、演奏するのが得意だった。そのこともショパンの気分を害したらしい。リストはショパンに対して、熱烈な崇拝を示したが、ショパンは、何かにつけて仲間であることを誇示したがるリストの態度を警戒していたようだ。
リストはショパンを、「うっかりすると、足をとられてすべるガラスのような、決して本心を見せない男」と形容しているが、ショパンの曲を愛し、いたる所で彼の曲を演奏し、それが、結果的には、宣伝効果を生んだ。
ショパンが、リストに献呈した「エチュード集」は技巧的に難曲ぞろいで、技巧派のリストに対する挑戦状のようにもとれるが、リストはすばらしい技巧でそれらを弾きこなし、ショパンもその素晴しい演奏に舌をまいた。

(ピアノ)
ショパンのお気に入りのピアノはプレイエル、リストはエラール。プレイエルは、音のニュアンスを大切にしたもの、エラールは、よく響く明快な音のでるもの。
当時のプレイエルのピアノの画像は、こちら です。


(演奏家と作曲家)
パリでデビュウーした当時はピアニスト兼作曲家として身をたてようと思っていたショパンだが、デビュー後は、自分の公開演奏会は、ほとんど開かず、いつも賛助出演してきただけであった。それも作曲に専念するようになってからは、ほとんどしなくなる。心身共に繊細なショパンには公開演奏会の緊張は、精神的にも肉体的にも堪え難い負担となっていたし、ステージ恐怖症にも落ち入った。当時の心境をリストに次のように語っていた。


「僕は、演奏会には向いていません。大勢の聴衆に怯えてしまいます。彼等の高鳴った呼吸に窒息しそうになり、好奇な眼差しには、麻痺しそうになり、見知らぬ顔を前に声も出なくなったように感じます。でも、あなたは演奏するように運命づけられています。聴衆を魅了できない時には圧倒するだけの力はお持ちですから。」


ノアンの客人

1846年7月9日、一夜をノアンの客人として過ごしたエルザ.フルニエがショパンの演奏を聴いた感動を母に書き送った。

「お母さま。この何とも言い表せない印象の最中に、あなたがいなくて大変残念です。ショパンの素晴らしい才能をお聴きになったら、あなたは、さぞ喜んだことでしょう。..........私の生涯でこんな才能を聴いたことは、かつてありません。率直さ、やさしさ、善良さ、エスプリが驚異的なのです。彼はベッリーニをユーモラスに弾いて見せました。そして私たちをおなかがよじれる程笑わせました。それくらいベッリーニの型や音楽的習慣についても繊細な観察、才気に満ちた嘲笑を持っているのです。......苦境にあるポーランドの人達の祈り、それが涙を誘うのでした。それから身震いさせるような早鐘のエチュード、それからひどく重々しい、暗く悩ましい葬送行進曲で私たちの心はいっぱいになり、胸は締めつけられ、沈黙のさなかに、あまり深すぎて抑えきれない感動のため、耐えられぬ吐息ばかりが聞こえてくるほどでした。........小憩のあと、サンド夫人が歌う曲のため、彼は、また私たちにラ.ブーレというダンスの楽しい曲を聴かせてくれました。それは全くこの国に共通なもので彼によって入念に探究された主題が、優美さと素朴さに満ちた尊い集積が、つくり出されています。...........彼は嗅ぎたばこ入れや絵などの中に封じ込めた小さな音楽をピアノで模倣し、もし私達が彼と同じ部屋にいるのでなかったら、それが、彼の指で鳴らすピアノとは思えないほど、真に迫っているのでした。..........」

彼女の手紙からは、ショパンの才能の豊かさ、ユーモアたっぷりの人柄、ポーランドへの思いの深さなどが脈打つように伝わってくる。





私が選んだショパンの曲ベスト10は、こちら


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