


オルレアン広場9番地のショパンの部屋。ショパン愛用のプレイエルピアノが左角に置いてある。ショパンは「気分がのらないときは、できあいの音のでるエラールを弾くが、気持ちがのって音をさぐる元気のある時には、プレイエルのピアノがいい」と言って
いた。








パリのオテル.ランベールにおける舞踏会(ポロネーズを弾くショパン)
テオフィル.アントニ.クフィアトコフスキ作(ポズナニ国立美術館所蔵)
毎年パリで開催されたチャルトリスキ公爵夫妻の主催によるポーランド式舞踏会の回想
パリのホテル.ランベールで暮らすチャルトリスキ家の人々。そこに日々集う詩人や芸術家のなかに、ショパンもいた。
この絵では教会の地下聖堂のような室内に過去や同時代の人々が集う様子を描いている。ピアノを弾くショパン。ポロネーズを踊る男女がいたり、16世紀の装いをした公爵夫人、旗を掲げる騎士の小隊など。
この舞踏会で得た収入は貧しいポーランド移民の経済支援にあてられていた。

ショパンは、消耗しきってしまう程に、すべてのエネルギーを作曲に注ぎ込んだ。これは、「練習曲ハ短調」に取り組んでいるときの様子である。
ショパンをよく知る人たちは、彼が曲を作るとき、普段は、抑えつけられている激情が、いかに音楽にたたきつけられるかを見ていた。結果彼は体力も精神力もすっかり消耗してしまうのだった。
ジョルジュ.サンドは、後にショパンについて次のように書いている。
「8年間にわたって、毎日ショパンの音楽的思考や霊感にふれてきました。ショパンのピアノは、心の中の喜びや葛藤、勝利に酔う気持の高ぶりや、苦悩を教えてくれました。私は彼自身と同じくらいにショパンの事をよく理解していたのです。」

(ショパンが最期を迎えたヴァンドーム広場12番地の部屋)
ショパンはパリでの住居を幾度となく変えている。
1831年、プールヴァール.ポワソニエール27番地6階に落ち着く。
1833年初、シテ.ベルジェール4番地3階、同年暮れには、ショセダンダン街(モンブラン街)5番地、ポーランド人のアレキサンデル.ホフマンと一緒に住んでいた。ホフマンがドイツへ行った後ヤン.マトゥシンスキと暮す。
1836年、ショセダンダン38番地。前よりも一層豪華なアパルトマンに移り住む。
1841年11月、ピガール街16番地に移り住む。
1842年9月〜1849年5月か6月頃までスクワール.ドルレアン広場9番地に暮す。
その後数か月、シャイヨ大通り74番地2階に移る。
1949年9月下旬ヴァンドーム広場12番地(中庭に面した中2階)に移り、ここで最後を迎えた。

居間には20人程が集まり、皆沈痛な面持ちをしていた。ショパンが、「ポトツカ伯爵夫人はいるか?」と尋ね、夫人の歌を聴きたがった。ピアノが運び込まれ、部屋の扉が開け放たれると、ポトツカ伯爵夫人は、「ピエタ.シニョーレ(慈悲深き主)」を歌い始めた。張り裂けそうな胸を抑え、彼女が涙ながらに歌いあげると、居合わせた人々は皆、膝を折り涙をこらえた。
(サンドの娘ソランジュの記述より)

ピアノのそばに立つ女性がデルフィーナ.ポトツカ伯爵夫人、ショパンの横にいて心配そうに見つめている女性は、ショパンの姉ルドヴィカ、修道女のそばで顔を覆っているのがソランジュ、右の女性は、教え子のマルツェリナ.チャルトリツカ、さらにその奥には司祭アレクサンドル.イェウォヴィツキと画家のテオフィル.クフィアトコフスキとヴォイチェフ.グジマワがいる。

ショパンは、次第に意識を失いはじめた。目が醒めて何かを言おうとしても言葉にはならず、書きたいそぶりを見せたので、紙と鉛筆を手渡した。書いたものは、「この咳で私は窒息死するだろう。頼むから私の身体を開いて生きたままで葬ることにはならないようにしてほしい。これが、ショパンの絶筆であり、遺言であった。
モンソー公園内のショパン像 リュクサンブール庭園内のショパン像

リュクサンブール庭園内のジョルジュ.サンド像 同庭園内のドラクロア像
